鳥・虫・ケモノと木の実のとりあい

基本姿勢の確認、そして反省

 「人がどのように自然と関わってきたのか」ということに興味がある。それは過去の事として捉えることにとどまらず、「人はどのように自然と関わっていくことができるのか」というもう一つの興味につながっている。やれ木の実を食べると言えば、「なぜこの時代に食べる必要があるのかわからない」と言う人がそれはもう相当数いて、こちらはそのつもりがなくても敵対するような構図になってしまうことがある。食べることを強要したわけでもないのに、悲しい。悲しんでもいられないので、何とか誤解が解けないものかといつも思うものの、最終的にこちらの考えを正確に理解してもらえたという実感を得たことは少ない。
 過去に存在した自然との関わり方をトレースしてみることは、それが実際にどのような体験であったのかを理解するのに勝手がいい。木の実を食べるという体験ひとつをとっても、季節、より詳細な時期、どんな環境に生えているか、どのように該当する樹種を識別するか、熟れ時や食べ時の見極め、どこを食べるか、どのようにして食べるか、どんな味がするか、どれくらい収穫できるか、どのくらい食べ応えがあるか、どんな注意点があるか、等のプロセスを一度に経験することになる。「昔の人がやってみたことをやってみよう。昔の人はすごいねぇ。」という懐古主義的な結論を得たいのではない。その体験にどんな意味があるのかを考え、言葉にしたり評価したりするためには、体験してみるしかない。そこからしか始まらないのではないかというのが自分の意見である。
 関わり合う自然にどのような価値があるのか、それをどのように見積もるのか。誰の視点で評価するのか。何のために評価するのか。そんなことを真剣に考えている人たちが世界中に存在する。自分に何ができるものかと模索する日々であるが、せめて身近な人たちには自然と関わる事のおもしろさを知ってもらいたいと思う。しかし知ってもらうためには学びが足りない。日々の反省が積もり積もって、原点回帰。未熟さが恥ずかしいと思うヒマがあるなら本でも読めばいいのに自分。戒め投稿。